落語的了見

第1回 才能

それは奇跡

 趣味を仕事にできればこんな楽なことはない。それで食えるようになれば生涯遊んで暮らせることになる。しかし、趣味を仕事にするといっても、大成しないことには話にならない。

 落語家や役者、映画監督、音楽家の世界にも必ずいるのが、いい歳してバイトをしているという人。若いころは仕方がない。夢に向かってがんばっているのだから。それが、40歳なかばになってもまだ夢を捨てられずバイトをやっていたりする。もはや夢なんて追いかけてはいない。バイトをやりながら趣味をやることが日常になってしまっているだけだ。

 もちろん、ゴッホのように、死後何年もしてからその価値を認められたという場合があるが、それは奇跡。「時代が早すぎた」というのは今の芸術、芸能の多様化からすると、まずないと思ってよい。10年やって芽が出なければ、才能がなかったと思ってあきらめるべき。

 「男はつらいよ」第29作の「寅次郎(とらじろう)あじさいの恋」で、柄本明(えもとあきら)演ずる陶芸家の見習いが「10年修行をしています」と胸を張ったら、寅さんが一言、「才能、ないんじゃないか? 辞めた方がいいんじゃないかなあ」とつぶやく場面があるが、その通りである。この見習いは修行している自分に酔いしれているだけで、己(おのれ)に才能があるのかどうかを考えたことすらなかったのだ。

失敗を想像した時点でアウト

 10年やって芽が出なければよした方がよい、といったが、私からすると、才能があるかどうかはやる前にある程度分かる。まず趣味で生きていきたい、趣味を仕事にしたいと考えたとき、己の失敗する姿を想像した人はその時点でアウトである。

 芸術、芸能で生きていく人は究極のプラス思考だ。自分がそれをやれば成功すると確信している。そこになんら根拠はない。その根拠のない自信が自我の強さであり、他者を圧倒するパワーにつながる。そして、自分がその道を邁進(まいしん)すれば、まわりがどれだけ迷惑をこうむるかを考えないのだ。いや、考えてはいるが、その迷惑がいずれは自分の成功によって感謝に変わるとさえ思っている。

 自分の失敗する姿を想像するだけでアウトなのだから、自分がその世界に向いているか向いていないかで悩んだ時点でアウト。

 人間的に見れば嫌な奴。にもかかわらず芸術家、芸人の多くが愛されるのは、人徳があるからだ。愛嬌(あいきょう)といってもいいかもしれない。昔の小説家なんぞは、その愛嬌がなかったから孤独になり、自殺した者が多かったのではないか。

才能は埋もれない

 では次に、「向いている」と判断したとしよう。ここで問題になるのが、勘違い。才能がないのに、あると勘違いしてしまう場合がある。実は、大半の人間がそうだ。

 勘違いかどうか判別するのに、簡単な方法がある。誰にも教わらずまずやってみることだ。落語ならとりあえず古典落語をそれらしくしゃべってみる。難なく落語っぽくしゃべることができたら才能がある可能性はある。まったくしゃべることができなかったら才能がない証拠。才能なんてそんなもんだ。頭の奥に埋もれているものではない。歌える人はいきない歌えるではないか。カラオケのレッスンに行く人がいるが、ある程度歌える人がより上手くなるために行くのである。

 私はミッキー・カーチスさんからブルースハープという10ホールズのハーモニカをもらったが、いきなり吹けた。細かいテクニックは後でミッキーさんから指導を受けたが、とにかく演奏したい曲はいきなり吹けた。だから私はブルースハープをやりたいと相談してくる知人には必ずこう言う。まず好きな歌を歌うようなイメージで吹いてごらん。だいたい吹けたら才能があるから続けてみな。まったく吹けず、ドはどこ? ミは何番目? 楽譜はありますか? となった人は、時間の無駄だからやめちゃいな、とアドバイスしている。

 もちろん、努力すればそこそこにはなる。だがその道で食っていこうとするならば、努力だけではどうにもならない。趣味を生業(なりわい)にして生きていける人は才能があり、人徳がある人。その人が努力をするから人々を魅了できるのである。

 いや、それは努力ではない。没頭だ。

 では、努力とは何か。それついては次回に。

2012年8月10日更新

B!

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