ムーンアイランドへようこそ

第6話 「べき乗」の未来

舞台

居酒屋「ムーン・アイランド」は、東京の下町、もんじゃ焼で有名な月島(つきしま)にある。すぐ近くに帝都大学がある。店内には歴代の宇宙飛行士の写真や、ノーベル物理学賞受賞者などの写真やサインが並んでいる。どういうコネクションがあるのかわからないが、実際にNASAから宇宙飛行士がやってきたりするサイエンス居酒屋である。

登場人物

糸川真凛(いとかわ・まりん)

帝都大学理工学部3年生。宇宙物理学を学ぶ。ひょんなことから、月島にある居酒屋「ムーン・アイランド」でアルバイトをすることに。美人で背が高く、モデルのような外見だが、超理系の負けず嫌いな性格と、科学に命を懸けているため、恋人はいない。

朝永佐織(ともなが・さおり)

「ムーン・アイランド」の女将。上品で和服の似合う美人。理科好きの男性が好きで、科学居酒屋「ムーン・アイランド」を始める。性格はしとやか。しかし、話が宇宙や深海など科学的な冒険のことになると、人が変わったように熱が入る。

国友一雄(くにとも・かずお)

「ムーン・アイランド」の常連客。大会社の役員待遇の研究者。20年前に「ノーベル物理学賞か」と騒がれたことも。頑固で無口だが、ほかの客が間違った科学の話をすると、「国友です」ともっさり名乗って、間違いを正す。

川端誠司(かわばた・せいじ)

帝都大学法学部政治学科3年生。真凛と付き合いたくて天文部に入る。真凛と同じ歳。

だが、理系の知識はゼロ。金持ちの息子で勉強にも興味はないが、なんとか真凛に振り向いてもらうために、科学知識を得ようと「ムーン・アイランド」に通う。

   

「しらす」の算数

  「お~っ、今年も春がきたんだねぇ、ママ」

  その夜、カウンターの一番端に腰を下ろした国友は、出てきたお通しを見て喜んだ。

  「ええ。新鮮なのがたくさん入りましたから、まずはお刺身で食べていただこうと思って……。さあ、どうぞ」

  佐織ママが国友の目の前にさし出したのは、生しらすの小鉢。おろし生姜(しょうが)に生醤油(きじょうゆ)を添えてある。いまにも飛び跳ねそうなほど活きのいいしらすは鎌倉の漁師から直接買い付けたものらしく、体が透明にすきとおり、銀色の目がキラキラと輝いている。

  ひとくち含むと、甘さと磯の香りが広がり、鼻から抜けていく。熱燗(あつかん)をちびりちびりとやりながら、国友の目は宙をさまよい、しだいに細くなっていく。そんな国友をカウンター越しに見て、真凛はなんだか自分まで一緒に味わっているような、幸せな気分になるのだった。

   

  ドワワワワワー。

  入り口の扉が音を立てて開いて、新しい客が入ってきた。

  40から50代だろうか、赤いコートを着たかっぷくのいい女性が一人で立っている。中年以上の男性客がほとんどのこの店では、珍しい種類の客である。

  女性は店内をぐるりと見回すと

  「えっ!? あれ? この店、もんじゃ焼き屋じゃないんだ!」

  声が大きいので、みんな女性のほうを見た。

  この店に初めて訪れたほとんどの客は、店内に展示されている宇宙関連グッズや宇宙飛行士の写真のほうに興味を示すものである。店の看板にも、もんじゃ焼きの「も」の字も書いていない。

  「月島=もんじゃ焼き」という勝手な思い込みにもとづいて不平をもらす客にいやな予感をいだきながら、真凛は営業スマイルを作って、カウンターから離れた席に女性を誘導した。

  「この店のおすすめは!」

  席に着くやいなや、コートを脱ぎ終わる前に、女性は真凛に向かって詰問口調で問いかけた。

  「あたしねぇ、もたもたしてるのいやなのよ。早くしてね。おいしいご飯が食べたいの。あとビールね」

  「あ、はい……」

  「ちょっと、わかってるの! おなかすいてるのよ!!」

  こういう客には好みを尋ねるよりも、ずばりこれ! と言ってしまったほうがいい。しかし真凛は女性の迫力に圧倒され、頭に浮かんだ食べ物をそのまま言葉に出していた。

  「たくあんのお茶漬けなどはいかがでしょうか?」

  「はぁ? そういうの、この店ではお客に商品として出すわけ」

  (しまった! 昨日の夜、私が一人で食べた晩ご飯だ)

  「あ、えっ、はい……あの、たくあんの横に、旬のしらすがたっぷり、あと、菜の花と明太子、それにウニとイクラも添えてございます」

  (お店の冷蔵庫に、あったわよね)

  「ふーん。なんか急に豪華になったわね。まぁ、いいわよ。早く頼むわ」

  注文をとり終えてカウンターの奥に戻ると、一部始終を遠くから見ていた国友が、真凛に目配せしながらつぶやいた。

  「どう見てもこの店、もんじゃ焼き屋にゃ、見えないよなぁ」

  地獄耳である。

  (ああ、まずい、いやな空気が……)

  真凛は大急ぎでビールとお通しを持って女性の席に歩み寄り、満面の笑みをつくりながら、またしてもとっさに頭に浮かんだことを女性客に向かって言ってみた。

  (話題を変えて、空気を変えなきゃ)

  「あ、あの、しらすって、ご飯にたくさん乗せて食べるとおいしいですけど、人間がこんなにたくさん食べちゃっても大丈夫なものなんでしょうかね?」

  (我ながら変な話題だ。というか、何言ってんだ)

  「そんなこと知らないわよ!」という答えが返ってくると思いきや、

  「私たちが『しらす』っていって食べてるのはね、だいたいカタクチイワシのことなんだけど、1匹の親がどれくらいの卵を産卵すると思う?」

  「は?」

  真凛は女性がしらす話に《食いついた》のに驚いた。

  「ものすごい数ですよね」

  「そう、数万匹よ。ほとんどは成魚になる前に天敵に食べられちゃうけど」

  「はぁ。ほとんど食べられちゃうなら、しらすはいつか世の中からいなくなっちゃいますね」

  そこに国友が割り込んできた。

  「じゃあ、真凛ちゃん。1匹の親が産んだ卵のうち、何匹が食べられないで大人になれば、しらすはいなくならないと思う?」

  国友がまた参戦してきたことに、真凛は慌てながら、

  「いや、それは……」

  「あなた、真凛っていうのね。簡単よ。これ、算数よ、算数」

  「最低2匹だよ」

  女性が答えそうだったので、国友は、自分で答えてしまった。

  なんだか二人のあいだにライバル意識が芽生えているらしい。真凛はどっちを向いてしゃべっていいのか迷いながら、二人の顔を交互に見て答えた。

  「たったの2匹ですか」

  「平均はそんなもん、ってこと。つまり、一度に親が産む卵は何個だってかまわないけど、とにかくオスとメスの2匹の親から生まれた子どものうち最終的に2匹が残れば、しらすは世代が交代する前と同じ数を保てる。2匹よりも少なければ、しらすはやがて世の中から消えちゃうし、2匹よりも多ければどんどん増えちゃうわけ」

  「そりゃそうですね」

  「実際には、あるときの卵は全部食べられたり死んでしまうけど、あるときには余計にたくさん生き残って、というのを平均すると2匹、って話だけどね」

  国友は自分のおちょこを持って、女性の席のほうに移動してきた。

  (ああ、厄介なことにならなければいいけど……)

  「自然っていうのはうまくできているのよ。じゃあね、もう1つ。今ここにオスとメス1匹ずついるとするわね。カタクチイワシは生まれてから1年で繁殖できるとして、その子孫がひと世代経るごとに2匹でなく4匹のペースで残るとしたら、20年後に何匹になると思う?」

  「えーっと、2年後には4匹(親の代から比べると2倍、つまり2×2=2の2乗だ)、3年後には8匹(4匹がまた2倍になるから4×2、つまり2×2×2=2の3乗)、4年後には16匹(同様の考えで2の4乗)ってことは、2の年数乗で増えていくわけだから……、20年後は2の20乗で、えっと……」

  「100万匹を軽く超えちゃうわよ」

  今度は女性が自分で先に答えてしまった。

  「そのペースだと90年後にはカタクチイワシだけで地球の重さになり、100年ちょっとで太陽より重くなるぞ」

  国友は電卓を叩きながら負けじと付け加えた。

  「ああ、まさに『べき乗』の威力ですね」

  真凛は、最初はたいしたことのない数だと思っていても、ある程度先から爆発的に巨大な数へとふくらんでいく「べき乗」の数列を思い出しながら言った。

  「そのとおりなのよ」

恋してごらん、自分の夢に

  女性はどうやら、こういう科学の話が好きらしい。気分がよくなったのか、おもむろにビールを飲み干すと、「もう一杯!」とグラスを真凛に差し出した。

  真凛が空のグラスを受け取ってカウンターに戻ろうとすると、

  「あ、やっぱりいいわ。ちょっとここに座りなさいよ」

  と女性が呼び止めた。真凛がそばの椅子に座ると、

  「『べき乗』といえばさ、ちょっと気になっていることがあるのよ。地球上で今、現実にべき乗で増えているものがあるのは知ってる? このままいくと、人類がまったく経験したことのない世界がもうすぐ来るわよ」

  どうやらさっきの話の続きである。国友と二人きりになるのがいやなのか。

  「はぁ? 何ですか、それ」

  「あなた、ムーアの法則って聞いたことある?」

  「ええ。コンピュータがどんどん速くなってるっていうやつ、でしたっけ?」

  国友が再び、横から入ってきた。

  「正確にはコンピュータの集積回路の集積度が1年か2年で2倍になるっていう、インテル創始者のゴードン・ムーアが1960年代に唱えた経験則だ。50年以上、今に至るまでこの法則は破られていないんだよ。計算速度のほうも、この20年で1000万倍にもなっている。これは2のべき乗よりさらに1桁速いスピードだよ」

  「ものすごいスピードで進歩しているのは肌でわかります。スマートフォンなんて、手のひらサイズのパソコンですもんね」と真凛。

  「今のスマートフォンは、約40年前の、タンスくらいの大きさのスーパーコンピュータとほぼ同じ性能よ。この先もコンピュータ技術はべき乗で進歩していって、アメリカのコンピュータ研究者のレイ・カーツワイルは、『今世紀の中ごろにコンピュータの能力が人間を超える』って言ってるわ」

  「人工知能だね。しかし、人工知能の研究って、もうずいぶん長い間やってるけど、クイズ番組じゃ人間に勝てても、たとえば文章の文脈を理解させるのすら、当分難しいんじゃないかな?」

  国友が初めて女性のほうを見て言った。女性も、初めて国友と目を合わせて答えた。

  「まぁ、クイズみたいに、とにかくたくさんのことを覚えるっていうのはコンピュータのもっとも得意な分野だわね。でもやがては経験をとおして自分で学び、事象間の相互関係を見つけて仮説を立て、実証し、蓄積していくようになる。つまり、自ら賢くなっていくコンピュータが誕生するのよ。電気的なシナプスと記憶回路を使ってね」

  「ぼくたちの脳だって、突き詰めれば千数百億の神経細胞の化学反応にすぎないんだから、脳の中の神経細胞が電気信号を発して情報をやりとりする反応をすべて、スパコンでシミュレーションできれば、脳をまるごと再現できるはず、という考えさ」

  「そうすれば、私たちが考えたり、怒ったり、悲しんだり、喜んだりする仕組みもわかるし、コンピュータもそういうことができるようになるかもしれないわ」

  置いてきぼりを食らった格好の真凛がツッコミを入れた。

  「本当にそんなことが?」

  「わからない。でももし実現したとして、それが二足歩行のロボットの『脳』になれば、人間の記憶力をはるかに上回る膨大なデータと高い知能を組み合わせて、いろいろな職業をこなすようになるでしょうね。社会ががらりと変わるわ」

  「そうしたら、高齢化の問題は解消ですね。仕事はロボットにやらせて、人間は仕事をする必要がなくなるかも」

  真凛は、家事をこなすロボットや、オフィスで電話をかけるロボットを想像した。ロボットはパソコンなんか使わなくても、テレパシーみたいにほかのコンピュータと無線通信して情報をやりとりしてしまう。世界的な取引が黙々と光の速さで進んでいく。会社には最強スペックの強い脳が1つあればいいので、会議はもう必要ない。

  でも、そこで働く個々のロボットには個性があるのだろうか。

  「企業は自前でロボットを所有して働かせるだろう。ロボットには賃金を払う必要がないからね。そうすると、もう人間を雇う必要がなくなるね。社長以外はみんなロボットでいいわけさ」

  「あら、いっそのこと、社長だってロボットでよくない? 休む必要のない、頭のいいコンピュータが社長になったほうが、ずっと効率的な経営をするかもしれないわ。名目上、人間を社長の椅子に座らせておくにしてもね。もしかすると、政治家だって」

  女性は興奮して目をきらきらさせている。

  (やっぱり変わった人だ)

  「コンピュータと人間の立場が逆転してしまうなんていやだな」

  真凛は暗い未来を想像した。

  「その先は、コンピュータが自分で進歩していくから、人間の最後の発明が人工知能ともいえるかもしれない。そうすると、その先の技術の進展は『彼ら』の手にかかるから、その先の世界を人間は読めなくなるわけさ」

  と、国友は静かに言った。

  (映画『ターミネーター』みたい……)

  「ちょっと待ってください。21世紀半ばって言ったら、私、まだおばあちゃんにもなってないです」

  「でも、私はね、さっきはああ言ったけど、機械にできることがどんどん増えても、それでも人間にしかできないことが新しく出てくると思っているの。人間の役割とは何かっていうことが、さらに先鋭化されるわけ。たぶん、ひらめきや、創造力、個性、それから人と人のふれあいとか、そういうものの価値が相対的に上がっていくのではないかしら」

  「ひらめきと創造力、かぁ……」

  「恋をしてごらん、自分の夢に。とことん好きなことに打ち込むことだよ。人間の独創性は、きっとそこから生まれるんだから」

  「あら、あなたもたまにはいいこと言うじゃないの」

  そこに、ママがお盆に丼を乗せてやってきた。

  「さぁさぁ、国友さんの奥さま、こちらをどうぞ。真凛ちゃんのひらめきでさっき誕生したばかりの、しらすたっぷり海鮮お茶漬け丼よ」

  「意外とおいしそうじゃない。いただきます!」

  「え?」

  真凛は女と国友を交互に見た。

  「ぼくのワイフさ。真凛ちゃん、これからもよろしくね」

  

2014年4月25日更新 (次回更新予定: 2014年5月25日)

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