前回は、落語『平林(ひらばやし)』を取り上げ、認知科学の観点から、定吉(さだきち)の記憶力をめぐる謎を説明する一つの可能性を提案した。
今回は、落語のおかしさのうち、論理性に関わるものをみていこう。毎度ながら説明のためにオチのおかしさの解説が入る。野暮ったくなるが、どうかご容赦いただきたい。
推移律に基づく推論方式
我々が日ごろ行っているのは、経験に支えられた推論で、厳密な理論を考えると誤っているということも多い。落語にはそのような一見納得してしまいそうになる誤りを、ネタとして取り入れているものがある。
その代表が、古典落語『粗忽長屋(そこつながや)』である。
ご存じの通り、八五郎(はちごろう)が行き倒れを見て、「同じ長屋に住む熊五郎(くまごろう)だ!」と思い込んでしまう。ここで物語を左右したのが、八五郎があわてん坊の粗忽で、熊五郎がのんびりした粗忽だったということだ。
八五郎は長屋に戻ると、熊五郎に「お前は死んでるんだよ」と何とか説得して、死体を引き取りにいくことをすすめる。
なんとなく納得してしまった熊五郎は、自分の死体を見に出かける。そこで熊五郎は行き倒れを腕に抱えて、思わずつぶやく。
「抱かれてるのは確かに俺だが、抱いてる俺は誰だろう?」
この噺(はなし)の肝(きも)は、熊五郎が自分は死んでしまったと受け入れるところだ。それがどんなおかしさにつながるのだろうか。
論理的な考え方の一つに、推移律(すいいりつ/transitive law)を使ったものがある。文字を見るとなんだか難しそうなことだが、簡単にいえば次のことである。
数でもなんでもいいのだが、A=Bが成り立ち、かつ、B=Cが成り立つなら、A=Cが成り立つということだ。この規則を推移律と呼んでいる。
それだけ聞けば、なるほど当たり前じゃないかと思えるが、これを使ってちゃんと推論するのは、じつは、わりと難しい。というのも、私たちが推論するとき、いつも物事の境目はあいまいだからだ。
『粗忽長屋』のくだりで、この図式にのっとれば、「行き倒れ=俺」が成り立つという前提を受け入れてしまったということになる。
つまり、「行き倒れ=俺」が成り立ち、かつ、「俺=抱かれている行き倒れ」が成り立つ。したがって、「行き倒れ=抱かれている行き倒れ」ということになる。
これは論理的に正しい。噺の事実としても正しい。実際、「行き倒れ」は、「抱かれている行き倒れ」に間違いないからだ。
だが、やはりおかしく感じる。俺はどこに行ったんだ。とくに今行き倒れを抱いている俺は。
こうなってしまうのは、初めに誤った前提を受け入れてしまったからだ。こんなふうに、前提が正しくないと、形式が正しくても、推論はおかしな結果をはじき出す。抱かれているのは間違いなく俺だが、抱いてる俺は誰なのだろう、と。落語の中でも特に奇妙な噺である『粗忽長屋』の出来上がりである。
交換可能という性質
推論に誤りがあるときは、前提に誤りが含まれていることがある。その誤りとは、とどのつまり、「○○は…である」という言い方をして、行き倒れと熊五郎が同一であることを示すところだ。
このように、推移律では、じつは論理形式だけではなく、何を同じだとみなすかという点も重要だ。
たとえば、A=Bというのは、たぶんB=Aなわけだし、一見「AとBが交換可能である」と捉えてもよさそうに見える。だが、じつはそうではない。
これを古典落語『千両みかん(せんりょうみかん)』という噺で考えてみよう。これも定番の噺だ。
あらすじはこうだ。大店(おおだな)の若旦那(わかだんな)が患(わずら)って寝込んでいる。なんとかして患いの原因を聞き出すと、若旦那はみかんが食べたいという。
いまのように季節に関わらずみかんが手に入る時代ではない。唯一、みかん問屋に一個だけ残されているとわかったが、問屋はそのみかん一個を千両もの値で売るという。
番頭は目を白黒させたが、旦那は快諾した。番頭が若旦那にみかんを届けると10房のうち、一つ食べて莞爾(かんじ)として一言「おいしい」。立て続けに7房まで食べる。
残りは父親と母親、それからみかん騒動で骨を折った番頭の三人でわけてほしいと若旦那は言う。手に残された3房を見て番頭、何を思ったか、そのまま随徳寺(ずいとくじ)を決め込んだ。
もうすでに言わんとしていることはわかるだろう。ようするに、残されたみかん3房に三百両を見て身を隠したのだが、3房は三百両にはならない、というのがオチのおかしさを演出している。
なぜこうなるかといえば、交換可能という性質はお金の側にだけのものであり、みかんのほうにはない。
実際、みかん問屋のほうが手にした千両は、いろんなものに交換できる。客がこのオチを聞いて笑えるのは、番頭が行った推論を一瞬にして理解したからだ。これぞやわらかな知性のなせるわざである。
境目のあいまいさを許容する理論
推移律に基づく推論方式は、あの有名な三段論法の前提になっている。このため、昔から哲学の話題になってきた。それ以来これまで多くの研究者が、人がどうやってこの理屈を理解しているのか、また、それはどう発達するのかを調べてきた。まだ研究が続いているところを見ると、この問題にそう簡単には結論は出なそうだ。
その一方で、筆者は思う。私たち人間が日ごろの振る舞いを支えているのが、なぜ論理学のような厳密な理論ではなく、境目のあいまいさを許容する理論なのか。
これはまた別の興味深い問題である。それは答えの出ない哲学的な問題のようにも見えるが、少し頭を柔らかくして落語を聴けば、案外そこには謎を解くヒントがあるかもしれない。
今回は、人間の論理性について論じた。
次回も、いくつかの噺を取り上げ、認知科学の観点から、そこで使われている人間の知性が発揮される部分をみていこう。
2015年9月20日更新 (次回更新予定: 2015年10月20日)
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