やわらかな知性~認知科学から視た落語~

第18回 古典落語のなかの鏡像

前回は、人間の論理性について論じた。一見正しそうに見える理屈も厳密に見ていくと、正しくはないことがある。このことを落語では巧みに活用していることがわかった。

上下が逆さに映る鏡

このところハロウィンの熱気が高まってきて、なんだか気忙しい。ほんの数年前まで、この時期は気候も過ごしやすいし山々の緑も黄や赤に彩られはじめるので、季節の変わり目を実感して穏やかに過ごしていてはいなかったか。

ところが今では、街中の装飾にジャックランタンが幅を利かせ、ショーウィンドウの真ん中に魔女やドラキュラが鎮座している。悲しくはない。ただ、秋の訪れをゆったりと過ごしたくはないのだろうか、と素朴に思ってしまうのだ。

といいながら、筆者もその大きな流れに身を任せている。いま所属している研究室ではハロウィンの仮装をして、まじめにディスカッションを行う研究会を毎年10月に催している。もう十数年前からのことらしい。あくまでまじめに議論するというのがみそで、仮装と静謐(せいひつ)とのあいだの不調和を楽しむ会だ。

ご多聞に漏れず、筆者も仮装をすることになって、この時期はいつも頭が痛い。他人がやっていないようなことをしなくてはならない、という暗黙のプレッシャーを自分に課してしまうからだ。

ネタバレになってしまうが、今年は上下が逆さに映る特殊な鏡を作って、タロットカードにある「吊られた男」でもやってみようかなと思っている。ただ、タイツにひらひらの短パン、金髪のウィッグをつけたら、ピーターパンのように思われるかもしれない。仮装にしては理屈が勝りすぎている。いつもそうだ。

鏡が起こす心理的作用

鏡というのはなんだか不思議なものだ。自分と寸分たがわぬ姿をしたもう一人の自分が、鏡面を挟んで向こう側のもう一つの世界に住んでいるようにも思える。なのに、奥行きの向きがすっかり逆になっている。こちらの手元はあちらの手元、あちらの背中遠くはこちらの背中遠く。やはり不思議だ。

鏡を見ると映った自分の左右が反転しているように感じてしまう人も多いだろう。この体験は自己に関わる不思議な問題として古くから知られていて、これまでに物理学者や心理学者によって色んな議論がなされている。

光の屈折の仕方の問題だとか目が左右についているからではないかといった説もあるのだが、実際には心理的作用によって生み出されているというのが有力だ。

その理由を筆者なりに述べれば、鏡に映る像の左右が反転していると感じられるからに他ならない。

第三者の視点から客観的に見れば、人と鏡に映った人の像は鏡面を挟んで対称なので、理論的にはどちらの左右が逆に感じられても構わないはずだ。ところが、あくまで人が勝手に自分を基準にして、「映る像の」左右が逆だと感じる。

逆に自分の感覚の方が反転してしまい、次の日からお箸を持つ手とお椀を持つ手を間違ってもよさそうなものだが、実際にはそんなことは起こらない。

自己の視点を基準にした独善的ともいえる心理的解釈が、鏡像の左右が逆転した印象を生み出している。

鏡のなかは別の人

鏡の不思議については古典落語『松山鏡(まつやまかがみ)』という噺(はなし)がおもしろい話題を提供してくれる。こんな噺だ。

親孝行をする正直者の正助(しょうすけ)にお殿様が褒美をやろうとしたが、金も田畑もいらないという。何か願いはないかと聞くと、正助は死んだ父親に会いたいと漏らした。

「父親に会いたくば必ず一人でこれを覗き込め」と、お殿様は鏡を下げ与えた。そう、正直者の正助は父親にそっくりだったのだ。

正助は納屋でこっそり見ては父親との再会を懐かしんでいるが、怪しんだ妻が覗き込んでみると中には女がいて、夫婦は喧嘩してしまう。

そこへ通りかかった尼さんが仲裁に入ってわけを聞いてみると、二人の言い分がまるで違う。じゃあ調べようと尼さんが覗き込んで、一言。

「喧嘩せんがいい。中の女、決まりが悪くて尼になった」

鏡像を自己認識する能力

この噺は、鏡のない村に住む村人が自分とは別の人がいると思い込んでしまうことで成り立っている。そういわれれば確かになんとなくそういうことも起こりそうな気がしてしまう。

ところが、『松山鏡』は落語の世界では成立しても、現実の世界ではどうやら起こらなそうだ。なぜなら、人が鏡を見て自分のことだと思う自己認識は、2歳ごろというかなり早い時期からできるようになるからだ。

これはルージュ課題と呼ばれる仕掛けを使って調べられている。実験者が子どもの顔などに目立つしるしを付け、鏡を見させるというものだ。もちろん、遊びながら子どもに気づかれないように行う。

1歳ごろの子どもはあたかも他の子どもを見るかのように振る舞うが、2歳ごろになると鏡を見て「自分の顔の」しるしに触れようとする。つまり、2歳ごろまでには鏡に映っているのが自分だと認識する能力を獲得していくことがわかるのだ。

この結果は、当たり前のように思える。だが、思い返してみると、『松山鏡』では鏡の中の人物を自分のことだと思うとか、左右が反転するといったくだりは出てこない。あくまで鏡の中の人物を他人として認識しているからだ。

なるほど、左右が反転したという感覚は、鏡という単に光が反射するものを見て、「ああ自分がいるな」と思える知性があって初めて起こるのだ。しかもそれは発達のかなり早い段階にできあがっている。

もし、自己意識を持つヒラメがいたら

こんなふうに鏡の話題を出すと、自分の主張を言いたい人たちがどこともなく現れて、言いたいだけ言って帰っていくことがとても多い。そのほとんどは「そもそも左右反転なんかしていない」とか、「自分は左右反転したようには感じない」といった主張だ。

だから鏡の話題を書くときには、最後に「読者の判断にゆだねよう」としてお茶を濁すのが通例だ。

それでも、どうしても主張したい方のためにこんな問いを用意してみた。

鏡像をみると左右は反転するように感じるのに、「吊られた男」のカードのように上下は反転したように感じないのはなぜか。

もし、自己意識を持つ哲学的なヒラメがいたとしよう。そのヒラメに鏡を見せたら、ヒラメはどうするだろうか。腹を背にして泳ぐだろうか。それとも鏡を避けて泳ぐだろうか。

この結論は、読者の判断にゆだねよう。

今回は、落語『松山鏡』を題材にして、鏡像による自己認知について論じた。

次回も、いくつかの噺を取り上げ、人の知性が垣間見られる場面を眺めていこう。

2015年10月20日更新 (次回更新予定: 2015年11月20日)

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