やわらかな知性~認知科学から視た落語~

第19回 志の輔落語『親の顔』と抽象思考

前回は、松山鏡(まつやまかがみ)を題材にして、鏡像による自己認知について論じた。

今回は、日常での判断について、人が進化の過程で獲得してきた抽象的な思考に依拠する哲学や数学の観点から覗いてみよう。

抽象と具体の返し縫い

東京大学の校章にはイチョウの葉があしらってある。駒場(こまば)キャンパスのイチョウも見事だが、本郷(ほんごう)キャンパスもなかなかのものだ。筆者が普段過ごしている教育学部棟は本郷の赤門のすぐそばにあって、赤門から続く通りに並ぶイチョウが窓から見えている。

このイチョウの葉は、ちょうどいまごろになると色づいてくる。葉が落ちて作る黄色の絨毯(じゅうたん)は、毎年決まってとても美しい。だが、ただ美しいばかりではない。銀杏(ぎんなん)特有のにおいが地表から何重にも漂っているからだ。

涼しい季節に黄色の絨毯の上を散歩していると、心持ちも穏やかになって少し哲学的なことを考えてしまう。どんな人もこのイチョウの葉が高々100回落ちるまでには亡くなる。筆者はすでに30数回を見てきた。これまで何をしてきたか。これから何をしていくのか。こういった類いの問いはいくら問うてみても答えは出ず、ただ時間が経つのに比例してイチョウの葉が積み重なるだけだ。

もし、人生に抽象的に議論すべき価値や意義のようなものがあるのなら、それを知りたいとも思う。だが、その努力を払えば払うほど、いま現に生きている身から離れてしまっては、その問いに意味はないと気づかされる。

とすれば、哲学とは、そういった抽象的なものと現に生きられる人生が重なった縁(ふち)を行ったり来たりしながら、つなぎとめる作業なのかもしれない。行っては戻る反復運動のアナロジーから「抽象と具体の返し縫い」とでも呼んでおこう。

落語を聴いていて、ふと哲学的とも思えるのには、この作用が落語でも同じように働いているからではないだろうか。

秒速3センチで動く点と落語

立川志の輔(たてかわ・しのすけ)師の新作落語に『親の顔』というのがある。クラシカルという意味では、もう半分くらいは古典に足を踏み入れているといってもいい演目である。

学校でテストを受けた金太(きんた)は全部答えを書いているが、5点しか取れなかった。学校の先生は金太の父親を呼び出して金太の回答を伝える。

「太郎君と次郎君は草刈りをしました。太郎君は全体の2分の1、次郎君は全体の3分の1草を刈りました。草はどれだけ残るでしょう」

もちろん、この問題では、1/6(1 − 1/2 − 1/3の計算結果)と答えることが期待されている。ところが先生によれば「金ちゃんの答えは、やってみなくちゃわからない」なのだという。それを聞いた父親は、「惜しい。残さずやれってのが正解でしょう、先生?」

実際のところを金太に聞いてみると「太郎君と次郎君は仲がいいかわからないんだもん。仲が良かったら一緒に遊びたいから、すぐに終わらせるでしょ? でも、仲が悪かったら相手に押し付けたいからずっと終わらない」というのだった。

噺(はなし)のほうは、父親が金太に輪をかけて“興味深い”反応をするので、先生が父親に向かって「親の顔が見たい」と言ってサゲになる。

子どもが算数の問題を解くためには、子どもが普段生きている日常の世界を脇に置いて、小学校で身に付ける算数文法を操る必要がある。算数文法とは、状況を抽象的に捉え、枝葉末節を捨象して問題に答える学校でのしきたりのことだ。

低学年のころからこれをすんなり受け入れられ子どももいる。そんな子どもは「分数の割り算のときは、ひっくり返して掛ければいい」と世界を割り切って受け入れられる。

その一方で金ちゃんのように、もっと大きくなっても算数文法を受け入れない子どもも一定の割合でいるようだ。多くの場合で、こういう子どもは数学に苦手意識をもって大きくなってしまう。

『親の顔』という噺を聞くとき、著者はいつも人の賢さってどういうものだろうと考えてしまう。

小学生を対象としたある調査では、あり得ない設定の問題でも気にせず回答できる子どもが何割かはいるのだという。たとえば、「体重が5グラムの人が6人います。全部で何グラムでしょう」といった問題に対して、5×6で30グラムと答えるということだ。こういった子どもは金ちゃんとは反対に、日常の世界を脇に置いたまま問題を解けるということだ。果たしてそれは良いことなのだろうか。

難しく書いてみたが、ほとんどの人はこの問題に気楽に向き合っている。読者は、「秒速3センチで動く点Pってのは、なんとも律儀なやつだな」などと感想を漏らしたことはないか。こうやって、日常と抽象とをほどよく折衷しながら生きているのだ。

西田幾多郎と数学的直線

いずれにしても、「抽象と具体の折り返し縫い」をするという意味で、算数や数学はとても哲学的な営みかもしれない。実際、哲学者はこのようなことを深く幅広い観点から論じている。

京都にある桜の名所「哲学の道」の名の由来になった京都学派の始祖西田幾多郎(にしだ・きたろう)は、『自覚に於ける直感と反省』という文章の中で直線という数学的抽象概念について次のように述べている。あらかじめ補足しておくと、数学的な意味での直線とは2点を結ぶ最短の距離の線で、線に面積はない。これを念頭に読んでいただきたい。

「事実としての直線の意識は数学的立場から不純粋なるにせよ、我々が之(これ)を直線として意識する以上、その背後に数学的認識主観が働いて居ると見ねばならぬ、即ち或(ある)意味に於(お)いて数学的直線の理想が含まれて居ると考えねばならぬ」(『西田幾多郎全集 第2巻』p.112、ルビは筆者が振った)。

小難しく感じるかもしれないが、こういうことだ。「金ちゃん的に日常を生きている私たちだから、数学で言う真の直線というのは存在しないのだけど、ある線を確かに直線だと認識する私たちがいるはずだ」という考察である。ここにはやはり「抽象と具体の折り返し縫い」が見て取れる。
 

落語が起こすアナロジー

落語が興味深いのは、出てくる人たちはただの日常を過ごしているのに、時々その日常の期待を裏切る言動をする人が現れることだ。そのズレ(不調和)を客は単純にネタとして楽しむが、人生の折に触れて、ふと「抽象と具体の折り返し縫い」をしてしまうことがある。

これは例えば「いま自分が生きている状況に抽象的な価値や意義は本当にあるのだろうか、もっと妥当な別の形があるのではないだろうか」といった問いとして現れるだろう。その解決方法としては、金ちゃんのように、日常の世界にただ生きるのも気楽でいいし、価値や意義を問い続け新たなものを探索するというのでもいい。特に、後者は世のためには大事かもしれない。

ただ、ここまでに述べたのはあくまで落語のことだ。サゲを聞いて、寄席を出れば、人はまた日常の世界に戻っていける。もっと端的な言い方をすれば、落語が終われば、人はまた日常の世界に戻っていくほかないのだ。

今回は、人が進化の過程で獲得した抽象的な思考に依拠する数学や哲学の観点から、落語の作用を振り返った。次回もいくつかの噺を取り上げ、人の知性が発揮される場面をみていこう。

2015年11月19日更新 (次回更新予定: 2015年12月20日)

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