前回は、秋の気配に誘われて哲学的な思索に耽(ふけ)った。結果として、人が進化の過程で獲得した抽象的な思考に基づいた数学や哲学の立場から、落語の作用を振り返ることになった。
今回は、年の瀬ならではの勘定の噺(はなし)を題材に、ポジティブ感情の意味を考えてみよう。
落語のなかの特別な日
12月というだけでなんとなく気忙(きぜわ)しい。巷(ちまた)ではクリスマスを迎えようとして浮足立っているようだ。その一方で、日本的なクリスマス文化も成熟し、一種の飽和状態になっているようにも感じられる。
たくさんの人が、隣にいる人との幸せを疑いなくかみしめている姿は、日本的な素朴ささえ感じさせる。かつての特別な日は、多くの人が幸せを感じるという意味で奇跡的だが平凡な日になったのかもしれない。
落語の世界で特別な日といえば、なんといっても大晦日(おおみそか)である。
昔は買い物を町内で済ますので、その場で支払えない時にはツケておいて月末(晦日/つごもり)に勘定をする。ただし、「すまねぇが、次まで待ってもらえないか」と言われると、商人(あきんど)のほうでも「じゃあ翌月に」となるのが通例だった。
そうして、「今日こそは払うつもりが大晦日、つもり積もって勘定の山」。一年の仕舞であるおおつごもり(大晦日)、12月31日には、いよいよそのツケを払わなくてはいけない。そのツケた勘定を集めてまわるのが掛取(かけとり)である。
いうまでもなく、庶民にとっては特別な日である。だが、商人にとっては、とりっぱぐれてなるものかと息巻く、もっと大変な日である。こうした切羽詰った状況でも、なんとか乗り越えようという人間の知恵が垣間見られるのが落語のいいところである。
古典落語に『掛取万歳(かけとりまんざい)』というものがある。こんな噺である(以下、柳家さん喬<やなぎや・さんきょう>師の口演<『落語百選DVDコレクション アンコール二十選』7号/デアゴスティーニ・ジャパン>に基づく)。
大晦日、去年は亭主が亡くなったことにして、大家の勘定を断った。だが、大家がとてもいい人なのが災いして、香典を出してくれるという。もちろん、女房は受け取れないと断るが、亭主が棺桶(かんおけ)から手を出して一言「もらっておけ」、大家は仰天してはだしのまま駆け出した。
今年はそういうのはいやだよ、と女房が言う。それに対して亭主は「人間は好きなものには心を奪われる」ってぇからよと、相手の好きなものに合わせて、勘定の断りをしたら帰ってくれるだろうとやってみるのだった。
機転を利かせた切り返しのうまさや、掛取が喜んで帰っていくのを楽しむのがこの噺の眼目だ。
事実、狂歌好きの家主(大家)、浄瑠璃(じょうるり)好きの番頭、喧嘩好きの魚金、芝居好きの相模屋、万歳好きの三河屋がやってくるが、自分の好きなことで掛取の受け答えをされるものだから、なんとなくうれしくなってそのまま帰ってしまう(魚金だけは弱った顔をして帰ってしまうが)。
亭主が考えたこの作戦は、実は心理学的に見ても非常によくできている。
ときに判断を鈍らせるポジティブ感情
怒ったり悲しんだりするネガティブな気持ちは注意を収束させる。ネガティブな感情が起こると、目の前のことにかかりっきりにしてしまうことが多くの実験で確かめられている。
掛取で借りのある方から支払いを延ばしてもらう交渉することは容易ではないということだ。
反対に、楽しい、うれしいというポジティブな気持ちは、注意の範囲を広げ、視野を広げさせる。これはいいことのように思えるが、必ずしもそうではない。注意が散漫になり、情報の読み取りが不正確になりやすい。
簡単にいえば、ポジティブ感情はときに判断を鈍らせるのである。これが「好きなものに心が奪われる」ことの原因になっている。
このようなポジティブ感情が注目されるようになったのは1990年代以降のことである。代表的な研究者マーティン・セリグマンはポジティブ心理学を標榜して活動を続けている。
セリグマンといえば、イヌなどを使って学習性無力感の研究をしてきた心理学者として有名だ。学習性無力感とはその名の通り、無力であることを学ぶことである。
イヌを檻に入れて電流を流す。すると、イヌは初め電流から逃れようとして動きまわるが、檻の中のどこにいても電流が流れることを繰り返し体験すると、その場にうずくまり逃げようとしなくなる。これは、一部だけ電流が流れないように仕掛けを変えても続いた。
この研究は非常に衝撃的で、ご存じの読者も多いかもしれない。
このように心理学は、わりと最近までネガティブな感情を中心に研究がなされてきた。その反省として、よりよい人生への貢献を目指す学問としてポジティブ感情への注目がいま高まっているのだ。
落語は人間の本能を肯定する
落語の世界では、心理学者がこのような自覚を抱くはるか昔から、この「好きなものに心が奪われる」ことを地で行っていたのだ。
たとえば、狂歌家主に対して亭主が詠んだ歌がおもしろい。いずれも貧乏を題にしている。亭主が言うのには、「なにもかもあるたけ質に置炬燵(おきごたつ)、かかろう縞の布団だに無し」、大家は「沖の島に見立てたのかおもしろいな、他にはないか」と尋ねる。
さらに亭主は「貧乏の棒も次第に長くなり、振り回されぬ年の暮れかな」とすると、大家は「なるほどびんぼうの〝ぼう〟を棒に見立てて、振り回されぬ、とするはおもしろい」と応える。
とどめには亭主が「貧乏をしてもこの家に風情あり、質の流れに借金の山」というと、大家は「びんぼうの山水だ」と上機嫌だ。
落語『掛取万歳』に出てくる浄瑠璃や芝居、三河万歳といったそれぞれ相手の好きなもので返す掛取の断り方には、人のコミュニケーションの根っこの部分が含まれている。それは、働きかけに対して確かに応えてくれるという関係性である。
赤ちゃんが泣いたとき、親がおしめを変えてくれたり乳をくれたりして、赤ちゃんは何となく心地よくなる。赤ちゃんにとっては、それがどういう仕組みで動いているのかを知る前に、「世界とは働きかけに対してちゃんと応えてくれるものだ」という思い込みに近い信念を抱くようになるのだ。
このような繰り返しの体験が人のコミュニケーションの根っこになる。だから、働きかけて、応えてくれるものにはなんだか愛着を抱く。自分が好きなことならなおさらだ。
子どもたちが仲のいい何人かで遊んでいるのもそうだ。世界には粘土や画用紙があるだけではなく、他の子どもがいて、時に働きかけに応えてくれることを知るようになると、仲のいい数人で遊ぶようになる。
子どもだけではない。大人になって好きなことに時間と費用を避けるようになると、趣味を同じくする者たちは集まり侃侃諤諤(かんかんがくがく)、議論はいつまでも尽きない。いずれも、コール・アンド・レスポンスの楽しさを本能的に求めているからだろう。
コール・アンド・レスポンスの連なり
完璧でないにしろ、何らかのレスポンスを返してくれることに人は支えられている。人間の知性も同じだ。
もし働きかけるたびに世界が異なる様相を見せるものだったなら、私たちは混乱し、理性や感情はうまく育まれないのかもしれない。
そう考えてみると、多少のゆらぎはあるにしろ、一定のレスポンスを返してくれる世界の下で人間の知性システムはうまく機能しているのだ。
今回は、『掛取万歳』という噺を取り上げ、「好きなことには心が奪われる」ということが巧みに利用されていること、そして、私たちの生きる世界は、コール・アンド・レスポンスの連なりでできていることを見てきた。
次回はまた少し違った観点から、落語に関して論じていきたい。
2015年12月18日更新 (次回更新予定: 2016年1月20日)
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