落語的了見

第20回 大衆

むかつく「スイーツ」

 家の近所に隠れた名店と噂(うわさ)のパスタ屋がある。嫌だなあ、「パスタ」という呼び方。スパゲティでいいのに。「スイーツ」もむかつく。菓子だろうよ。

 ズボンを「パンツ」ときたもんだ。パンツの「パ」にアクセントをつけて言うと下着の意味になり、平坦に、つまり茨城訛(なま)りで言うとズボンの意味になるらしい。ややこしい。靴は「靴」か? いや、「パンプス」。なんのこっちゃ。

 それならいっそのこと、イントネーションの違いで意味を変えればよろしい。「ライオン」の「ラ」にアクセントをつけたら牝(めす)ライオンのこと。「ラーメン」を平坦に言えば背脂(せあぶら)ドロドロの今風のラーメン。「ディズニー」を平坦に言えばそれはバッタ物。「東京」の「と」にアクセントをつけたら山の手。

 「田舎」を平坦に言えばふるさとを思う郷愁の意味で、「い」にアクセントをつけたら小馬鹿にしているという意味にする。すると「この田舎者!」と罵声(ばせい)をあびせるとき、「い」にアクセントをつけなければいけないから、訛ってしまってどっちが田舎者かわからなくなる。

なぜ不味い店が繁盛するのか

 何の話だ? パスタだった。とにかくその店は美味(うま)いという評判で、のべつグルメ雑誌にも取り上げられている。だからいつも満席。地方からわざわざ来る人もいる。しかし実は不味(まず)い。塩からいし、野菜を入れすぎでパスタというより野菜のごった煮。おまけに生野菜まで交ざっているから食感も悪い。

 もしかしたら私の味覚が間違っているのかもしれないが、もし事前に「この店は美味いと評判だよ」と言わずに食べさせたら、ほとんどの人が不味いと思うはずだ。

 なぜこんなに不味いのに繁盛しているのか。それはマスコミが美味いと言っているからだ。「大衆」というものは、いとも簡単に洗脳されてしまうものなのだ。テレビ番組でタレント料理人が美味いと言っただけで、明くる日からその店には行列ができてしまう。

「己の基準を持たない」のが大衆

 洗脳されないためには、みなが味覚に「己(おのれ)の基準」を持てばよいのだが、大衆はなかなかそうはいかない。言い換えれば、己の基準を持たないのが大衆なのである。己の基準を持っていないから、それを持っているように見える人間に弱い。だからタレント料理人の一言を信じてしまう。信用できる人物を見つければよいのだが、己の基準がないからそれも見つけられない。

 別に基準がタレント料理人でもよいのだが、大事なのは、自分がその人に心酔しているかどうかである。たとえば映画については、私は師匠の談志が基準だった。だからいくら映画評論家やタレントが「この映画は面白い!」と騒いでも、談志が「つまらない」と言えば、私もつまらないだろうと予測してその映画に挑んだ。

 もちろん、談志がすべてではない。談志は「男はつらいよ」が嫌いだったが、私は寅(とら)さんに心酔しきっている。だが、なぜ談志が「男はつらいよ」が嫌いかを考える。その結果、それは山田洋次(やまだようじ)監督の作る世界に対する趣味嗜好(しゅみしこう)の問題だとわかった。

 己の基準を他者に求める場合、すべてを受け入れてしまうと、ただのヨイショ野郎になってしまう。他者の基準はあくまでも参考である。でも己の基準がないよりいいのである。

袋だたきにあった

 己の基準を持つということは実に難しいが、それを持っている人の数が多い国を「文化レベルの高い国」というのだ。現在の日本はそのレベルがあまりにも低い気がする。

 本来、日本人は「侘(わ)び寂(さ)び」が理解できるような高度な文化レベルを持っていた。東京人になると粋(いき)・野暮(やぼ)もわかった。だが今の大衆は、まったくといっていいほどその抽象的な感覚がわからなくなっている。

 東日本大震災が起こったとき、「自分にできることをやりたい」と日本中の人が立ち上がった。正しいし、美しいことだ。しかし、正しいことを、照れもなく正面きってやることは、野暮なのである。

 だから私は「できることをやるなんて当たり前、できないこともやるんだ」と主張した。みなが言っていることと意味は同じなのだが、落語家だから、野暮にならずギリギリのところで粋にならないかと考えてこのように表現したのだ。すると人々から袋だたきにあった。

 みなが何千万円、何億円と東北に寄付をした。素晴らしいことだ。だが、寄付した多くの人が自分の名前を公表した。「足長(あしなが)おじさん」を知らないのか。被災地にとっては名前を公表しようがなんだろうが、助けてくれれば感謝なのだが、こういうときは名前を伏せるのが粋であり、そもそも粋以前に、本来慈善とはそういうものではないのか。

落語家としての栄光

 まあ、この連載を読む人は、己の基準を持った、世間から言わせると変わり者で、当人からすれば粋人(すいじん)だろうから、ある程度は理解いただけるだろう。そうでない人がこれを読む可能性も大いにあるが、そうなると「こいつ、何を言ってやがる」と叱(しか)られる。

 断っておくが私は大衆をないがしろにしているわけではない。なにせ、大衆芸能とかつては呼ばれた落語を生業(なりわい)としているのだから、大衆を無視するわけにはいかない。大衆の本質を語っているのであり、その大衆をも凌駕(りょうが)するところに、落語家としての栄光があると思っている。

 こんなことを考えている落語家は、談志亡きあとは私だけだろう。でもそれを考え、実行するのが現代の落語家だと思っている。どうか私を「落語家」と平坦に言っていただき、他の落語家は「ら」にアクセントをつけて「落語家」と呼んでいただきたい。

2013年6月26日更新

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