やわらかな知性~認知科学から視た落語~

第5回 観客のまばたきが同期する現象

前回は、落語を聞いている多くの観客の状況をつぶさに観察することを通して、客観的で定量的な観客の「まばたき反応」という重要なものさしを見出したことを述べた。

今回は、いまだ気づきに過ぎないこの現象の素描を、どのような理屈で考え、検証すれば実証的な研究にまで高められるのかを論じよう。

理論としての同期

落語を聞いている観客の表情を映し出す映像をじっと見ると、多くの観客が、同じタイミングでまばたきしているように見える。しかし、観客のまばたきの回数は、本当に多くなったり少なくなったりしているのだろうか。ここをきちんと調べなければ、いくつもの解釈の余地が残る。

まずは、噺家が演じる時間をごく短く均等に分け、その時間区間ごとに観客が何回まばたきをしたかを数えてみよう。もし仮に、観客一人ひとりが独自の周期でまばたきをしていたら、どの時間区間を見ても、同じくらいの回数がカウントされているはずだ。

統計上の性質からいえば、その値は観客全員のまばたきの総回数を、時間区間の数で割ったくらいに落ち着く。

これとは逆に、どこか特定の時間区間だけで顕著にまばたきの回数が増えたり減ったりした場合、その時間区間で、多くの観客の振る舞いが同期しているということになる。

ならば、時間を横軸にとって時間区間を順に並べ、カウントされたまばたきの回数を縦軸にとり、順に線でつないで線グラフを書いたとき、その線グラフが山や谷の形になれば、観客のまばたきが同期しているということになるのだなと思ったあなたは非常に鋭い。

だが、実はそれだけでは十分ではない。

あらゆる科学的研究で得られるデータには常に多少の誤差が含まれるので、ある程度まで回数に増減があることは否めないからだ。だから、いま目の前にある回数の増減が偶然で得られることがきわめて稀(まれ)であると確認できるまでは、その現象が確かにあるといえないのだ。

認知科学の通例では「本当は現象が起こってはいないのに起こったと結論する誤り」の確率(危険率または有意水準と呼ばれる)を5パーセントに設定する。この研究でも、これにしたがった。

さらに、一つの事例で確認されただけでは心許ない。落語に普遍的に見られなければ、結論付けできないからだ。たとえば、柳家小三治(やなぎや・こさんじ)師の口演のときに、観客のまばたきが同期したとしよう。これは、噺家の特性であって、落語一般にまではあてはまらないかもしれない。

また、『首提灯(くびぢょうちん)』のしぐさのときだけとか、『あたま山』の下(さ)げのときだけというように、特定の演目・ネタだけで同期するのも限定的すぎる。

観客のまばたきの増減が、噺家の口演内容と対応して起こっていることの確認を忘れてはならない。

もし、両者に対応関係がなければ、はじめに考えた素朴な現象の素描とは本質的に違うものを発見したことになってしまうからだ。私たち研究グループが見つけようとしたのは、はじめは噺家が見せる魔法のような巧みなガイドだったのに、観客が知らずにまばたきのタイミングを合わせるという、異なる現象を見つけてしまったように。

新しく見つかったものがそれはそれで面白いとしても、やはり区別が必要なのである。

現象に実体を与える検証

ここまで理屈が勝ってしまったが、いよいよ研究の根幹となる検証の段階までこぎつけた。私たちの研究グループは、これらを確かめることができる状況を設定して、検証をしたのだ(野村・岡田、 2014、研究1[*1])。

具体的には、落語会を研究室に再現し、30名ほどの観客の前で二人の噺家(春風亭昇々[しゅんぷうてい・しょうしょう]さん、桂宮治[かつら・みやじ]さん)に二席ずつ(それぞれ『ちりとてちん』と『初天神(はつてんじん)』、『お見立て(おみたて)』と『元犬(もといぬ)』)、口演してもらった。

通常、噺家の二人会では、仲入り前と主任(トリ)が重要な演目となるので、今回は、二席目と四席目を観察対象とした。

観客の顔を映すための動画カメラをセッティングして、まばたきの回数をカウントした。また、表現内容との対応関係を検討できるように、時間区間をかなり長めの5秒に設定した結果、演者・演目がそれぞれ異なる口演のどちらでも、偶然とはいえないほど、まばたきが増減する部分があることが確認された。

しかも、まばたきの増減が見られた部分は、場面転換やネタの言い終わりなど、噺の内容としっかり対応していた。

このようにして、直感的にありそうだと思われた観客のまばたき同期は、観察のデータから確かめられ、もはや推測の域を超えた。この調査結果は、噺家がちょうどよいタイミングで、観客が面白いと感じるように誘導し、表現する内容によって観客の思考の流れをガイドしていることを示唆(しさ)している。

とすれば、噺家がそれを実現しているのは魔法ではない。噺家が適切な解の一つとして実現した表現で観客を引き込んでいたのだ。

ここまで読んできた熱心な読者の中には、こんなことわかりきっていることを、なぜ改めて述べているのがわからないという感想を漏らす方もいらっしゃるかもしれない。

しかし、気づいてほしい。研究以前の見方は、日常的な体験を反映した素朴な素描に過ぎなかった。それは輪郭線で描いた程度の荒さである。このような見込みに、研究は現象の実体を与えた。それによって素朴な素描が、詳細を加えたデッサンになったのである。

認知科学の場合、現象自体は日常的な体験を通して研究以前にすでに直観されている場合がほとんどで、研究したからといって見方ががらりと変わることはめったにない。むしろ、研究が与えるのは、細やかな説明のリアリティであり、これが結果として現象の予測可能性をもたらすのである。

今回は、まばたきという客観的で定量的な指標に注目して、系統的に観察することによって、現象がより細やかに描き出されると論じた。

しかし、このような現象がどのような仕組みで実現されているのかについては、実はまだ何も述べていない。

次回は、このような現象がどんなメカニズムで生じているのかを実証的に示した実験を紹介する。そして、これに基づいて落語の間(ま)について論じていこう。

参考文献
(*1)野村亮太・岡田猛(2014)話芸鑑賞時の自発的まばたきの同期 認知科学、 21(2)、 226-244。

2014年9月20日更新 (次回更新予定: 2014年10月20日)

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