前回は、落語の「スクリプト」がどのように生み出されており、そこではどんな「語りの方略(演じ方の工夫)」が使われているのかをみてきた。
今回は、熟達した噺家が何をしているのかを明らかにするために、いわゆる落語の「間(ま)」と呼ばれるもののうち、観客の笑い終わりを待つときの間に着目して語りの方略の実際を論じていく。
語りの方策、その定性的な研究
前回、柳家小三治(やなぎや・こさんじ)師の口演から、落語『千早振る(ちはやふる)』の一対のスクリプトを見ることで、語りの方略が秒単位で埋め込まれていることを、私の卒業研究を用いて紹介した。そして、「噺の構造」と「語りの方略」はともに噺を展開するための両輪であり、決して分離できない関係にあることを述べた。
その後に行った修士論文では、演者と観客とのあいだの身体運動の同調に注目した、「定量的な研究」に移行することになったのだが、今回はそのあいだで行った、語りの方略の「定性的な研究」を紹介したい。
この研究の狙いは、小三治師の語りの方略の有効性が、どのように発揮されているのかを描き出すというものだ。そのために、初心者(落語研究会員1年生、演技経験2ヶ月)と準熟達者(落語研究会員OB、演技経験8年)が、小三治師と同じく『千早振る』を口演した際の方略を比較することにした。
もちろん、小三治師と比較しようとすること自体が、土台無理な話である。だから、この結果を一般化しようというつもりではない。前回も述べた通り、あくまでも豊富にある一つの事例だと受け止めて読んでいただきたい。
全体の傾向をさぐる
落語の見巧者(みごうしゃ)として現役の落語研究会員を3人集めて、3つの口演(マクラ以外)を順に見てもらい、噺のまとまりごとに語りの方略のよし悪しを評定してもらった。
評価に使ったのは、
0(悪い:用い方に不足が見られる)
1(よい:問題なく用いられている)
2(大変よい:効果的に用いられている)
という3段階である。
ざっくりとしすぎているし、一概にあてはまらない例があるのは承知の上だ。あくまでも全体の傾向を知るための方法である。
結果として、8割弱の評定が3人で一致していたので、不一致の箇所について再度協議をして最終的な評定値とした。
大まかな結果としては、当然ながら小三治師の語りの方略は、9割以上がよいと判断された(「大変よい」が33.2%)。だが同時に、この粗い網目の分析では、準熟達者も同じくらいの評価(「大変よい」が28.1%)で、初心者の評価だけが圧倒的に低かった(「悪い」が29.7%)。
競合の精緻な運用
さて、ここからが本題である。
小三治師の『千早振る』では、くすぐりに関して、テンポやポーズの長さの変化(連載第9回参照)を使った「盛り上げ」や、声の使い方や表情による「強調」に関して高く評定された。この結果はよく納得ができる。
しかし興味深いことに、くすぐりの部分で、逆に「悪い」と評定された箇所もあった。それは、ストーリー展開の内容を正確に伝えるための方略に関するものである。例えば、「聞き取りやすさ」がそれに当たる。
次のセリフのテンポをよくするために、語尾を発音しないというときがある。くすぐりの部分で「聞き取りやすさ」が「悪い」と評定されたものの30%がこれに相当した。準熟達者では、この例は見られなかった。つまり、熟達者ではくすぐりを語尾まで発音しないことで、たとえ「聞き取りやすさ」が低下したとしても、セリフをテンポよく言って盛り上げていた。
この結果が示唆(しさ)するのは、次の二つだ。
第一に、小三治師のような熟達者の場合には、複数の語りの方略が多層的に用いており、時にいくつかの方略が競合する。第二に、競合する語りの方略のうち、演出上の意図をよく反映するほう(こちらは、くすぐりで「盛り上げる」こと)が優先されるという精緻(せいち)な運用が行われている。
笑い終わりの待ちの間
この研究では、上記に似た語りの方略の競合関係がもう一つ見つかった。「笑い終わり待ちの間」である。
観客が笑い終わる前に次のセリフを言ってしまうと、セリフの頭が笑い声にかき消されて聞き取りづらくなる。そうならないように、少し待ってから次の発話に進むのが「笑い終わり待ちの間」と呼ばれている。
この方略について、初心者では「悪い」と評定されるものはなかった。なんということはない、笑いの数も少なく声量も小さいため、ほとんど待つ必要がなかったのだ。
それに対して、準熟達者も熟達者もちゃんと笑い終わるのを待ち、ていねいに次の展開に進めていた。
ところが、両者にも悪いと評定された箇所がそれぞれ3つあった。これは「笑い終わり待ちの間」を取っていないという定義上の意味だが、実質的には別の意味合いがあったのだ。
『千早振る』という噺は、力士の竜田川(たつたがわ)と花魁(おいらん)の千早太夫(ちはやたゆう)の長い因縁が、じつは歌の訳だったという予想外の説明を隠居(いんきょ)が始めると、サゲにかけて二重三重に伏線が回収されていく。それが結果として、くすぐりの連続になるという構造を持つ。
ここでは、もたつかずテンポよく進むことが求められるし、どのくすぐりに力点を置くかをコントロールしなくてはいけない。だから実際に、
隠居「卯(う)の花(はな)はくれない、からくれないだよ」
金 「あらおからくれないか、あれは。あー、しでぇなこら」
の応答で盛り上げるが、その後の、
隠居「どぼんと飛び込んで水くくるとはだ」
で一度落ち着かせるというように、語りの方略もダイナミックに展開していく。その流れですぐに、
隠居「『とは』ぐらいのはしたはまけとけ」
とサゲを誘い出す文句になるのだが、観客の笑いが終わるのを待たずに、サゲに進んでいた。笑い終わるまで待ってはいけない。むしろ、観客が笑っていることを受け止めながらも噺を進めることで、観客の注意をサゲまで持たせなければならない。
観客の反応と語りの方略
このように、実際の小三治師の口演を見てみると、ある瞬間の力点や噺の展開の中での重点の置き方に応じて、熟達した噺家の語りの方略が生まれていくことに気づかされる。
つまり、観客の反応に合わせて語りの方略を変えていくということは、単に相手に合わせることではない。噺家はあくまで自律性を保ちつつ、観客を次の展開へと導いていく、そのために方略が活用されている。
こう振り返ってみると、あらかじめ語りの方略によし悪しを設定したこの研究の見方には、いささか無理があったようだ。
だが、こうした研究があったからこそ、演者と観客との関係の中で噺が絶えず組み上げられていくという、ダイナミックな見方(連載第2回参照)を持つことができたのである。
今回は、『千早振る』を事例に取り上げて、語りの方略の実際を、とくに「笑い終わり待ちの間」に触れて見てきた。
次回は、伝統的徒弟制の中でも世界的にも特殊な、落語における師弟関係と、その背景にある学びの哲学について論じていく。
2015年2月19日更新
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