前回は「噺家(はなしか)共同体」における師弟関係と学びの哲学を論じた。
今回は、落語の現代性について論じる。なぜ古典落語はよく見聞きするのに、現代落語という表現はそれほど定着しないのだろうか。
談志師の『現代落語論』
巷(ちまた)では、リズムに乗って歌うように繰り広げる漫才がまた流行っているようだ。多くの人が予見するように、この流行に慣れたころにはまた別の流行が生まれているのだろう。
リズミカルなネタを見るといつも私は、漫才が先祖返りをしているなあ、と独り思う。
ご存じの方も多いだろうが、漫才は万歳と書き、家々をまわり祝言(しゅうげん)を述べて歌舞を披露し、祝儀をもらう芸能だという時代があった。
歌は、時に言葉よりも力強く、人の心を掻(か)きたてる。寿(ことほ)ぎの心もまた歌に乗せたほうが身にしみたのだろう。
それは現代でも同じで、リズミカルなやりとりが漫才の本質なのだ。だからこそしばしば先祖返りが起こりうる。
では、落語の本質とはなんだろうか。
その一つの回答として今回の連載では、落語が備える現代性だと主張したい。
落語には、以前から古典落語という言い方がある。古典落語の範囲をどのように定義するのかは侃々諤々(かんかんがくがく)議論がなされているようだが、いずれにせよ噺家のあいだでも客のあいだでもその言い方は定着している。
一方、現代落語という表現はあまり耳にしない。談志師が残した書籍『現代落語論』(三一書房)を除けば、あまり使われていないようだ。この題目にしても、現代版の落語論という意味合いではなかろうか。つまり、現代という言葉は落語ではなく論を修飾しているように私には感じる。
修飾語としての「現代」、その省略
さて、なぜ古典落語という表現は受け入れられ、現代落語という言い方はあまり使われないのか。
私が有力だと考える仮説は「落語それ自体が現代性を備えているので、あえて修飾語として現代と付け加える必要がない」というものだ。
認知科学的に見ても、人は通常備わっている性質については省略してしまう傾向がある。これを理解するための事例は何でもいい。
たとえば、「そば」なら、天ぷらが加わるから天ぷらそばになるが、初めからてんぷらが付いているんなら、あえて天ぷらそばとは言わない。嘘だと思ったら、汁なし坦々麺(たんたんめん)を考えてみればいい。坦々麺には通常汁が入っているから、あえて「汁なし」という説明を加えなくてはいけない。
ただ、話はややこしいのだが、坦々麺のルーツとなった食べ物は棒手振り(ぼてふり:魚や野菜などを天秤棒で担ぎ、売り声を上げながら売り歩くこと)みたいにして売って歩いたため、汁はなかったのだという。言葉遊びが好きな方のためにいうならば、今の汁なし坦々麺は、汁あり坦々麺の汁なしということになる。
これでにやりとした人は、トゲアリトゲナシトゲトゲを調べてみると楽しめるかもしれない。
さて、本題に戻るが、人は通常備わっている性質を名前から省略するという傾向がある。正確にいえば、通常備わっていない性質について加えて、最初のものとは区別する。
落語がもし現代性を備えているのであれば、あえて現代とつける必要はないということだ。
通常伝統的な芸能には、伝えなければならない受け継がれるコンセプトがある。確かに落語にもその側面はある。だが、多くの噺家がいる中で全員がそれを引き継ぐ必要はない。新たに伝えたいコンセプトが生まれたとすれば、それを表現しても構わないのが落語の懐(ふところ)の深いところだ。
ここでいうコンセプトとは、第3回連載で述べた「噺家が肚に決めたテーマ」を言い換えたものである。だから、噺家はこのコンセプトに基づいて、噺として具体的に「何を表すか」や「どんな風に表すか」を決めていくことになる。
コンセプトを表現するという現代性
芸術(アート)の世界では、表現のスタイルよりもコンセプトが重視されるようになった近現代のアートのことをコンテンポラリアートと総称している。
この考え方と呼び名を借りれば、落語の一部は以前からコンテンポラリなものであったといえる。落語では、伝えるべきコンセプトを受け継ぐという古典性に加えて、新たにコンセプトを表現するという現代性が共存してきたのである。だから、あえて「コンテンポラリ落語」という必要はないのだ。
コンテンポラリという言葉には、同時代という意味もある。同じ時代を生きる者たちに共有されているその感覚があってこそ、せりふは息づき、仕草や表情は観客にまで迫ってくる。
だが、残念ながらその感性はいつまでも同じであると信じることはできない。
たとえば、新たなテクノロジーはコミュニケーションの姿を変え、感覚に世代の隔たりを生む。一昔前は当たり前にあった、待ち合わせでの劇的なすれ違いは、携帯やスマホがある今日には存在しなくなった。これから言葉を交わすことの意味も変わるかもしれない。
だからいつの時代であっても、その時代特有の感覚だけで成立した落語は、いずれ時代遅れのものになりうる。
江戸時代という雰囲気でこそ納得できる噺もあっただろう。もっといえば、軍国主義や好景気の下でのみ理解できる噺もかつてはあったかもしれない。その時代に伝えるべきであったことと、落語が口演されている「いま」とがずれ始めたとき、古典落語という表現が生まれ、その便利さゆえに定着してきたのだと思われる。
しかし、落語はそこで終わることなかった。それぞれの時代の、噺家一人ひとりが新たに表現すべきことを生み出してきた。
そうして今日まで、現代性を備えながらつながってきている。これが、古典落語に対して現代落語という呼び名があまり意識されない原因ではないだろうか。そしてまた、古典落語が今日でも口演されるということは、古典と呼ばれるようになってもなお通じる普遍的な人の情を備えていることを表しているように思われる。
今回は落語の古典性に比べ、見落とされがちな落語の現代性について論じた。
次回は、鑑賞者としての観客が熟達し、見巧者になるとはどういうことかについて触れたい。
2015年4月20日更新 (次回更新予定: 2015年5月20日)
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